鈴木空如について


 鈴木空如は、明治6年
(1873)、鈴木虎之助・フミの三男として生まれ、本名を久治といいます。秋田県仙北郡小神成村13番地(現・大仙市太田町小神成)に生まれ、世界文化遺産・法隆寺の金堂壁画を模写したことで世に知られています。

 空如は、仏画によって生計を立てるというよりも仏画研究に頭していたため、生活は決して楽ではありませんでしたが、佐藤維一郎
(内小友出身、号維山)・田口松圃(大曲出身、大曲町長、県議会議員を歴任)などと親交が深く、とくに維一郎は空如のよき理解者であったことは知られています。

 維一郎は手記『仏絵師の聖 鈴木空如翁』に、空如との出会いについて「その瞬間、私は『清貧即清浄』と言うべき尊敬の念を禁じ得なかった。その節、私は僭越にも仙北出身の此の一仏画家に対し、晩年まで、年々歳々揮毫をお願いいたし、秋田県にその作品を遺したいと決心をした。」とあります。維一郎は空如よりも17歳年下でしたが、空如の生き方・仏画制作に対する姿勢に感銘を受け空如を物心両面から支え続けたのです。

○法隆寺金堂壁画について

 世界文化遺産・法隆寺には、世界最古の木造建築物である金堂・塔・中門があります。鈴木空如が模写した十二面の壁画は金堂内陣の外壁を荘厳する壁画です。

 金堂壁画は、中国の敦煌莫高窟に描かれた唐代の壁画と比較されますが、近年、莫高窟壁画よりも金堂壁画の図柄が整理され洗練されていることなどから、唐の都・長安から伝わった技法で描かれていることが指摘され、当時の文化交流を知る第一級の資料です。

 壁画の制作時期は、7世紀末から8世紀初めのものと推定され、白鳳文化を代表する壁画です。十二面の壁画は、諸仏を描いた四面の大壁画
(釈迦浄土図・阿弥陀浄土図・弥勒浄土図・薬師浄土図、各高さ3.12m×幅2.67m)と八面の小壁画(日光菩薩図・観音菩薩図・大勢至菩薩図・月光菩薩図・聖観音菩薩図・文殊菩薩図・普賢菩薩図・十一面観音菩薩図、各高さ3.12m×幅1.58m)からなります。

○法隆寺金堂壁画模写

 法隆寺金堂は、昭和24年(1949)1月26日の火災で、解体修復申のため取り外されていた内陣小壁を荘厳していた飛天を除き、すべてが焼失してしまいました。

 皮肉なことに、空如の名が広く世に知れたきっかけは、金堂壁画の焼失した同年6月に、東京芝大門の協和銀行本店で「空如遺作法隆寺金堂壁画模本展」が開かれたことによります。

 空如の金堂壁画模写は、明治40年(1907)から昭和7年(1932)まで、26年間に3回に渡って行われており、3組の模写本が存在します。

 空如が法隆寺金堂壁画の模写を志すきっかけとなったのは、明治初期に活躍した日本画家・桜井香雲の金堂壁画模写本を見る機会があり、桜井の仏画に対する姿勢と壁画自体の美しさ荘厳さに感銘を受けたためといわれています。その思いは「桜井香雲先生を憶う」という一文にしたためられています。空如は、桜井の模写本を手本とし実際に法隆寺に向かい、色彩・剥落などを正して模写しました。

○仏画家としての空如

 空如は、日清戦争に22歳で従軍し退役後、明治31年(1898)に26歳で東京美術学校
(現・東京芸術大学)へ入学します。入学の後、山名貫義(1836〜1903、日本古美術研究の権威)や大村西崖(1868〜1927、古仏画家研究の第一人者)に師事することになります。この山名・大村との出会いが、仏画家・鈴木空如を生むことになるのです。

 仏画家としての空如は、仏画によって生計を立てるというよりは、「仏像は厳格なる法則ありて画彫家の得手勝手に左右すべきものにはこれ無く候」、「世の所謂大家などと称せらるヽ現今の俗工」が「不謹慎な像」を作っている状況は、「容易にその(仏画)法則を知る機関」がないためであるから広く仏画の〈厳格なる法則〉を世に伝えるため、仏画の模写に生涯をかけていたことが書簡などを通して知ることが出来ます。

第1号壁画 釈迦浄土図

第2号壁画 半跏形菩薩像

第3号壁画 観音菩薩像

第4号壁画 勢至菩薩像

第5号壁画 半跏形菩薩像

第6号壁画 阿弥陀浄土図

第7号壁画 聖観音菩薩像

第8号壁画 文殊菩薩像

第9号壁画 弥勒浄土図
第10号壁画 薬師浄土図
第11号壁画 普賢菩薩像

第12号壁画 十一面観音菩薩像

法隆寺金堂内陣壁画位置図
番号は壁画番号を示しています。

鈴木空如資料調査研究事業



 鈴木空如(すずきくうにょ)の画業とその誠実な人柄を後世に伝えていくため、平成21年度7月から、鈴木空如生家に残された作品及び歴史資料の調査とその整理を行っています。

 
鈴木空如について、詳しくはページ下部へ。



○平成21年度の取組


 平成21年度の調査で確認された資料は、合計で3,443点ありました。その内訳は、下絵を含む作品が730点、歴史資料が2,554点、その他の資料
(絵具、衣類等)が159点となっており、写真撮影や目録作成等を行いました。


 また、調査の専門指導委員を東北大学名誉教授・有賀祥隆
(ありがよしたか)氏、東北大学大学院教授・泉武夫(いずみたけお)氏にお願いし、空如がが3組作成した法隆寺金堂壁画模本(原寸大)の比較検討も行いました。調査の結果から、1作目は箱根湯本鈴木家が所蔵している模本(大正11年完成)、2作目は平木浮世絵財団が所有し東京国立博物館へ寄託されている模本(昭和7年完成)、そして3作目が大仙市で所蔵している模本(昭和11年完成)であることが判明し、それぞれの模本の特徴を確認することができました。


 これらの調査結果は、去る3月に開催された「鈴木空如資料調査研究事業報告会」及び有賀氏による講演会「鈴木空如の画業‐法隆寺金堂壁画を中心に‐」で報告され、多くの市民の皆様にご参加いただきました。

○平成22年度の取組


 
今年度は、大仙市内・外に点在する鈴木空如作品及び歴史資料の調査と、保存のための整理作業やそれらの一部修復を計画しています。

 空如の仏画には落款などの署名はありません。これは、美術絵画として制作したものではなく、仏画はあくまで信仰の対象であるという空如の一念の現れであると考えられます。

 なぜ、空如は仏画の模写に人生を掛けたのでしょうか。それは、空如自身が明治・大正という時代を生き、7・8世紀に中国から伝来した法隆寺金堂壁画の〈仏〉たちや、9世紀に空海が中国から持ち帰った密教の図像に描かれた〈仏〉たちが失われてゆく現実と向き合い、そのことへの危機感と後世に伝えようとする使命感があったからではないでしょうか。空如はそれらの忘れ去られてゆく〈仏〉たちを一心にありのままに模写し後世に伝えようとしたのです。

 残念なことに、昭和24年(1949)に金堂壁画が火災によって焼失したため、現在、法隆寺金堂内陣の外壁を荘厳する壁画は、昭和42(1967)年に東京芸術大学が中心となって明治期の桜井香雲、大正・昭和期の鈴木空如の模写本などを参考資料として復元したものです。

 その修復の方針は、「制作当初への“復元"」ではなく「焼損時への“再現"模写」することとし、和紙に描いて木枠に貼ったものを壁画にはめ込んでいます。

 空如が一生をささげた金堂壁画模写は、仏画家として最も円熟したころに始まり、現在のような照明設備も無い中、数十回に渡り法隆寺を訪れつぶさに模写し、真に迫るまで古色を吟味し、心身ともに艱難辛苦を乗り越えて金堂壁画の模写本を完成させました。