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郷土の先人
   

 

古きを知ることは新しい。郷土の先人を知ろう!

半田忠蔵

青年教育に生涯をかけた
半田忠蔵 (1860〜1899)

佐竹藩の家臣半田茂助の長男として久保田城下(秋田市)に生まれた。父茂助は柔術の師範を努めるなど藩主からの信頼は厚かったが、明治維新の士族の解体で南楢岡(南外村)の大杉部落に移った。父は苦しい生活の中から忠蔵に漢学を学ばせた。期待に応えて19才で秋田師範学校に入学し、卒業後は村の教育にあたった。忠蔵はまた済々義会をつくり、学生や村の有志をつのって、様々な意見交換や討議をし、夜を徹して語り合った。一方、野球や相撲を普及させ、多くの人々に親しまれた。


伊藤裕

晩学の人
伊藤 裕(1862〜1959)

南外村・沖田の穀倉地帯で生まれた裕は、米づくりに精を出す、働き者として評判を呼んでいた。しかし、無学で過ごした彼は学問への思いが強く、半田忠蔵の夜学会に入門。19才で小学校一年生からの勉強を始めたのであった。やがて教員を志した彼は猛勉強を開始。24才で教員手伝いとなり28才で大沢小学校長になったのである。さらに、東京の哲学館(現東洋大学の前身)に学び、師範学校、中等学校等の試験に合格、各地の校長を歴任。70才で辞任するまで学究生活をつらぬいた努力の人であった。


伊藤恭之助

県産業の基盤を作った
伊藤恭之助(1870〜1938)

土地の名門の家に生まれ、半田忠蔵に学び、長じては政界、馬産、酒造業に大きな成果を残した。独学の人ではあったが猛烈な勉強家であったという。 幼少の頃から好きだった馬の優良・改良に情熱を傾け、県畜産試験場の基礎を築いた。また、現出羽鶴酒造を設立し、秋田の酒を全国に知らしめたのも恭之助翁の功績である。 酒の改良技術研究のために醸造試験場を設立。さらに開墾事業で米の増産をはかるなど、数々の業績を残した近代秋田の偉人である。


八嶋竹治

貧しい人々を救った
八嶋竹治(1867〜1921)

少年時代、半田忠蔵に才知と度量の深さを見込まれた竹治は、秋田師範学校に入学。しかし、血気盛んな弁論のせいで放校となったが東京の法律学校へ進んだ。ところがここも家庭の事情で中退。三転して仙台二高、医学部へ進み、卒業後開業。さらに順天堂専攻外科で当時の先進の医学技術を学ぶや朝鮮(韓国)に渡って医療救済の活動に身を投じた。帰国してからは郷里で32才の若さで大曲に仙北病院を創設。名医の誉高く、しかも貧しい人々からは治療費を受け取らないなどまさに医は仁術の人であった。


伊藤徳五郎

日本柔道の普及者
伊藤徳五郎(1878〜1939)

講道館の創始者、嘉納治五郎の愛弟子で、四天王のひとりとうたわれた徳五郎も、幼少の頃は弱虫であった。しかし、東京の学校に進学する機会を得て上京。早稲田、中央、明治と転学したが中退。ところが大学時代にはじめた柔道は彼の心を引き付け、講道館に入門。以来、柔道一筋の生活にはいる。 師の命を受けたアメリカで13年間も試合をし、勇名をはせた。そしてロサンゼルスに道場を開いたが、父の急死で帰郷。旧家を継ぎ、以後は馬の飼育や絵画の鑑賞をする静かな日々をおくった。


佐藤藤太郎

私学振興につくした
佐藤藤太郎(1884〜1972)

秋田師範学校に学び、県内の小学校に3年間勤務して満州鉄道に勤務。その満鉄から逆に内地留学した彼が見たものは、狭い運動場と小さな教室にひしめく子どもたちだった。 のびのびと良い環境で教育を受けさせてやりたい。そう考えた藤太郎は教員仲間三人と私立学校をつくろうと計画。 私財をなげうち、友人知人に資金の提供を仰いで、たった五人の生徒で武蔵野学園(東京)を開校させた。47年も苦難の末、私立学園を日本に定着させていった。


高橋幸三郎

地下資源開発に生涯をかけた
高橋幸三郎(1892〜1977)

村の藍染め屋の子として生まれたが、その英才ぶりが教師に認められ、農学校から東京帝国大学の工科に合格。鉱山研究への道を歩むことになった。 様々な研究発明を成しとげ日本の鉱山発達の原動力となった。しかし、第一次世界大戦から終戦までは、軍需品の輸入のために国策に振り回される日々が続いた。ようやく研究に復帰した彼は、日本初のウラン鉱床をさぐるなど、まさに「出藍の誉」そのものの気迫溢れる生涯をおくった。


絹川武良司

ステンレスの権威
絹川武良司(1894〜1968)

貧しい農家に育った武良司(むらじ)は、働きながら高等科に学び、その才能を認められて師範学校へ入学。やがて東京高等師範学校から京都帝国大学を卒業するまでとなったのである。 そして住友金属の研究員となり、同系の日本ステンレスで38年の長い研究生活を果たした。「実験、即発明」の努力が実ってステンレスに関連した発見と特許は21件にものぼった。武良司のステンレス鋼は、鎧畑ダムや、田沢発電所にも生かされている。


鎌田正忠

苦行力行の人
鎌田正忠(1895〜1946)

明治維新で、武士から士族になった正忠の家は、あまり豊かではなかった。しかし子供の教育には熱心で、長女も師範学校に進ませる程であった。しかし、この試験を正忠はトラコーマによって不合格となってしまった。この事を逆にバネにして、15歳から37歳までの間に七回の検定試験に合格。特に教員を目指してから一年四ヶ月で小学校正教員に合格したのはまさに神業といわれたものである。51歳で帯広高等女学校の校長に至るまで36年間、教育一筋の生涯をおくった努力と信念の人である。

 

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