タイトル

 


第七話 狐つき貉つき

<狐つき>
 いつの頃より始まった亊か歴然としておりませんが、昔、村の誰かが病の床に伏しなかなか快復しないと、必ずや狐か貉がついての仕業と信じこむの常でした。
 医学や医療機関(施設)の発達していない時代であったので、医者に診てもらう事も薬を買って飲む事も自由にはできなかったので、大部分の家では病人が出ると加持祈祷師
(俗称ノリキ)に赴き狐か貉がついていないかと、その真否を占ってもらうのでした。もし、ついているとなればその狐か貉を落とさなければ病人の生命が危ぶまれると思いこんでいるので、機を失せず霊験あらたかな加持祈祷師で、狐落しで有名な内小友大田(現大曲市)の「エヂコ」(いたこ)に赴くのでした。
 親せきの者か隣近所の比較的口達者な者二、三人頼み、病人の着物一枚と白米、銭、ローソク等を唐草模様のフロシキに包み背負い、冬はツマゴ、六ベイ、カジカシンベイ、アクドシンベイ等をはきめざす大田の「エヂコ」の家にと何里かの道をたどるのでした。
 やがて、たどり着いた頃は昼で「シズコ」「ボタコ」「ミソヅケ」の入った大きな握り飯をいくつか平らげ、「エヂコ」の家で出す番茶で喉を潤し「エヂコ」の病人の様子を申し上げて一服する。やがて拝殿の前の机の上に持参した着物、白米、銭、ローソク等を供えて「エヂコ」を待つ。しばらくして正装した「エヂコ」が現れ机の前に正座し、数珠をもみながら何やらじゅ文を唱える事しばらく続くと、やがて病人についている狐(狐の精)「エヂコ」が霊媒となって発する…。大畑の者よ、よく聞けオレは大畑深山の奥長坂の上の狐台に棲む古狐である。大分年をとったので毎日食う物を探し求めるに苦労をしなければならない。それでお前の母親の(病人)生肝を食って生きて行く事にした。女の生肝は特別味がよい。全部食いつくすまでは離れる事はできない……これに対して病人側は……お前の様な獣野郎(畜生)に人間の生肝など食われてたまるものか。見つけたらデボキ(こん棒)で「ぶったぎって殺してける」そうなる前に早く自分の山の奥に立ち去れ、年老いたら自分の子供達に食わしてもらえ。人間だって年えけば子供達に食わせてもらうのが当然だ……かかる舌戦がしばらく続く。
 しかし、万物の霊長たる人間さまに、勝てるわけがない。そのうち狐の方もおとなしくなり、狐の言うには、「オレは、お前の母親の生肝を食うことをあきらめるから、その代わり、オレの大好物の卵焼き、油揚げ、コアエマンマ(赤飯)など、どこそこの道チガイ(十字路、T字路、三さ路のこと)においてくれ。そうすれば、オレはそれを食って深山の奥長坂の上の、狐台に帰って、二度とお前の母親にとりつくことはしない。」…「本当か、それではお前の要求通りにする」…
 これで難攻不落の狐落しも一応落着。エヂコ様には平身低頭、厚くお礼を申し述べ、狐落しに勝利を得て、意気揚々として帰る姿は、がい旋将軍を思わせるものだった。やがて、家に帰り、狐の要求する食べ物を、指定された場所に供えておく。その時刻は、大体夕方薄暗くなるころだった。
 狐が落ちた(退散)病人はその晩より、薄紙をはがすように快方にむかうのでした。翌朝になって、前日の夕方、道チガイに供えておいた食べ物は、ひとかけらもなく平らげられておりました。もしも、全部平らげておらない時は、途中から引き返して来て、また病人にとりつくとされておりましたので、全部食うか、食わないかで、一喜一憂の思いだった。
 狐につかれた病人の容態は…日中はたいした事はないが、夕方より体温があがり、朝まで続くのでした。夜は深しんとして更けわたり、草木も眠る丑三つ時(午前三時〜三時半ころ)になれば病人の寢ている部屋の天井裏で、得体の知れない何者かが(多分狐か貉)、初めは「トン・トン」と、次は「デン・デン」と駆け走る音。そして「ゴロ・ゴロ」と転げ回る音。この三つの音が混同して響きわたり、しばらく続くこの頃が、病状が一番悪化する時であり、もがき、苦しみ、うわ言を口走る時は、狐の声音(コンコンなどと)を真似することもある。この時は、看病に付き添っている者の、だれもが異常な睡魔に襲われるのでした。
 しかし、狐が落ちた晩よりはこのようなことは、全くうその如く消え去り止むのでした。
 狐を落とすことなく放置していると、やがて病人は、四苦八苦、七転八倒の末、肝を全部食い尽くされ死亡した。
 昔は、人が死亡すると、ほとんどが土葬でした。村の手伝い人足達が、墓地までひつぎをかついで運ぶのでしたが、狐にとりつかれ、肝を食い尽くされて死亡したといわれる人の死体は、無性に軽く感じられたといいます。

<貉つき>
 五月のある日、ある部落の妙齢の一婦人が、山菜を取りに行き、俄雨(にわかあめ)に濡れた。季節に合わぬ以外に冷たい雨だった。早々と我が家に帰ったが、夕方より悪寒発熱……。風邪をひいた位に思って富山の置き薬を飲み、その晩は床についた。
 しかし、翌朝になっても悪寒発熱が続くので、又富山の置き薬を飲んで休んでいた。こうして二・三日経過したが、仲々快方にむかわない。むしろ一日一日と病状が悪化していくのだった…。
 食欲はなく頭が痛み、胸のあたりが重苦しい。発病して七日が経過した。家の者も困り果てて、何の病気であろうかと、加持祈祷(ノリキ)におもむき占ってもらったところ、病人に貉がついているので、その貉を落とさなければ(退散させなければ)治らないとの事でした。
 そこで、早速狐落しで名高い内小友大田(現大曲市)の霊験あらたかなエヂコ(いたこ)に赴いたが、悪辣非道な大古貉だったので、必死の努力も空しく、落とす事はできなかった。もはや絶体絶命、万事休す。病人は一日一日と衰弱の度を増して、まさに風前の燈火…となってしまった。
 一刻の猶予もできなくなった家の者は、もちろん親類一同思案投首。幾度か相談を重ねたが、貉落しの名案(対応策)は見い出すことは出来なかった。困り果てたあげく、部落全戸に相談をかける事になった。団結心の強い部落であったので、『義をみてせざるは勇なきり……』と部落全体で貉落しの対応策を協議した。
 その結果、妙齢の婦人につきまとって悩ます古貉は、見つけ次第捕って殺すよりは仕方(方法)がないとの結論に達した。
 野生動物の生態にくわしい某老人の話では、「人間について悩ます貉は、あまり遠方に棲むものではなく、比較的近い所に棲息し、人家に忍び近づくものだ。」とのことだった。老人の経験談を聞き、まずは貉の棲息する洞穴を発見することが先決問題だと衆議一決した。
 早速、翌日より部落の人達は、四・五人組を単位とし、何組かを編成し、貉の棲む洞穴発見に精根を傾けつくすのだった……。
 一方、貉に悩まされて婦人の寝室の床下や軒下の土には、忍びよった貉の足跡が無数に残されており、婦人の普段着は勿論のこと、タンスの中にある晴着にまでも貉の毛が付着しているのだった。
 善良な部落の人を悩ます者は、たとえ貉であっても許すことはできないと考え、駐在所のお巡りさんに訴願し、確かに貉の仕業である事を証明していただく事にした。早速、お巡りさんが病気の婦人の家に赴き、色々と事情を聞いたあと、床下や軒下の土についている貉の足跡(足型)を、腰のサーベルを抜き、その切っ先で敷きつめた菓子箱の空箱に入れ、蓋をして持って帰った。
 そして本署に持参し、警察署長殿に見せて、事の次第を申し上げたそうだが、署長の見解がどうだったかは知る由もない。
 話変わって、捜索開始後六日目で遂に貉の棲む洞穴を組のある者が発見した。
 病人の家の東北の、小高い山の峰二つ三つ隔てた所、渓流がサラサラと流れるほとりに、古い祠がある。そのむこうの平の中腹「ケヤキ」の古木の根元にある洞穴だった。その穴の入口は泥にまみれ、悪臭プンプンしていた。
 貉の洞穴発見の報告を受けた部落の人達は、猟銃二丁・唐鍬・スコップ・つるはし・テコ・鉈(ナタ)・鎌・鋸(ノコ)等、準備万端整えて、昔村会議員を努めた親方(オド)を指揮者とし、貉の洞穴に向かって出発した。撃ちてしとめんと戦場におもむく将兵の如くであったという。洞穴の現場にたどり着いた一同は、指揮者の号令と同時に堀り方作業開始。人数も多いため、洞穴は瞬く間に堀りつくされようとしていた。その時、穴の奥を覗くと炯々と光る目玉。これぞ妙齢の婦人につきまとい、悩ましていた貉と確認!絶対逃すことはできない。ここで堀り方作業を中止し、持参した猟銃二丁の筒先を揃え、洞穴に差し込み、貉の目玉にしっかりと照準を定め「撃て!!」の号令で引き金をひいた……瞬間「バンバン」銃口より火を吹き、轟音すさまじく四方の山々にこだまし、白煙濛々とたちこめる……
 しばらくして穴の奥を覗くとさすがの貉も二発の銃弾を浴びては逃げ出すこともできず、ぐったりと鮮血にまみれ、目を閉じ息絶えていた。洞穴の奥から引きずり出して見ると、下腹の毛は真っ白くめったに見ることのできない大古貉であった。こんなにコラふいた貉だから、人についたら生肝全部喰い尽くすまで落ちる事はなかっただろうと、部落の人々はつぶやくのだった。(下腹の毛が白ければ白いほどコラふいた貉といわれている。)
 これで一件落着、時はすでに五月中旬であった。一服したあと貉の足を縛り、棒にぶら下げ意気揚々とかついで帰途についた。
 部落に帰った親方(オド)は、貉射殺の有様を知らせるため、病人の家を訪れ、いろいろ話をした。その時、家人の話によれば、午前11時頃病人の寝室の天井裏で、「ドシン」と異様な大きい音がして、何かがころげ落ちた様子だったという。その時刻が、ちょうど猟銃で貉を撃った時刻とまったく同じだったということは実に不思議な現象であった。
 貉退治後、病人は薄紙をはがすが如く快方にむかったことは申すまでもない。
 その後しばらく経ったある日、部落の人達は狩猟法違反の疑いで警察署に呼び出され、取り調べを受けたが、以前に駐在所のお巡りさんが貉の足跡を警察署長に見せ、事情を説明しておいたので、正当防衛として認めてくれたのか、部落の人たちは無罪放免となった。
 しかし、その年の夏から秋にかけ、部落に伝染病が大発生し、何人かの生命が奪われた。かろうじて死を免れた者でも衰弱の度激しく、平常の体に戻るまでは長期の日時を要した。あとで知ったことであるが、この伝染病……実は部落の人々に射殺された古貉の祟りであったという。(ある加持祈祷師の占いによる)
 古より、狐や貉を殺した場合は少量でもよいから、その肉を食わないと祟りを受けるとの伝説がある。射殺した貉の肉は、部落全戸に配分したが、一頭の肉は全戸に対してほんの少量しか配分できなかったので、ある家の者は「こんな少量の肉は何のたしにもならない。」と食わずに捨ててしまった。その家の者が伝染病にかかってしまったことはいうまでもない。
 私の親戚の者も伝染病にかかり死は免れたが、話を聞けば、やはり貉の肉を食わずに捨てたという。
 狐や貉の祟りは実に恐ろしいものだと、あらためて痛感した。『迷信は迷信にあらず』文明の世にかかることは信じがたしと思えども……。

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