鈴木空如について - 鈴木空如資料調査研究事業

2019年12月11日

作画風景

生い立ち

鈴木空如(くうにょ・本名久治)は、明治6年(1873)に、現在の大仙市太田町小神成の旧家に生れました。19歳の時に画家になる志を立て上京します。上京後間もなく日清戦争(明治27・28年)が勃発し従軍します。そのため、東京美術学校日本画選科への入学は、明治31年(98)9月で25歳の時でした。 入学後、古美術研究の権威である山名貫義(つらよし)や、仏教美術研究の第一人者である大村西崖(せいがい)に師事したことが、空如の人生を大きく変えます。 空如は研究科(現大学院)に進み、明治37年(04)7月に修了します。その後、空如は仏画家としての道を歩み、法隆寺金堂壁画の原寸大の模写を三組制作するなど、近代の仏教美術史研究に大きな足跡を残すことになります。

空如と法隆寺金堂壁画

 

空如が法隆寺金堂壁画模写を志すきっかけとなったのは、帝室博物館(現東京国立博物館)が所蔵する、桜井香雲(こううん)の法隆寺金堂壁画模写絵との出合いであったとされます。
空如は晩年「櫻井香雲先生を憶(おも)う」(昭和16年筆)という一文に、金堂内陣と外陣の大小壁画を「数年を俟(ま)たず、人間業とも思へぬ複写完成(中略)先生其複写にあたり、昼猶(なお)暗らき金堂内にたて籠(こ)もり、高き足場を誰人の手助けもなく雑用も自ら昇降弁達、僅(わず)かに蝋燭の明かりを便りに黙々霊筆を揮(ふる)はれ」と香雲の画業を紹介しています。
また、空如は香雲を「未見の恩師又近代的大芸術家」と敬慕の念を示し、香雲が模写のため体と目を病み、不遇な生涯を送ったことを惜しんでいます。空如の模写の方法は、香雲の模写の線を写し取った後、実際に法隆寺に赴いて色や線、剥落(はくらく)の状態を吟味し、模写したと考えられています。

 

※桜井香雲・・・大阪出身、画工、天保3年(1832)生~明治28年(1895)没。明治17年(1884)5月に博物局の依頼で模写を開始、

『法隆寺日記』には500日間かかると試算されています。現在作品は、東京国立博物館が所蔵しています。 

空如の夢

空如は何を残したかったのでしょうか。故郷の畏友高橋瑩奏(えいそう)(1865年生~1925年没)に宛てた書簡に記されています。 

 

○第一は、本邦最優等の古画にして、世界的珍宝たる絵画を古色幅員其侭(そのまま)伝模(でんも)して、真の篤志家に拝せしむる事

 【法隆寺金堂壁画を古色のまま原寸大で模写し理解のある慈善家に見てもらうこと(壁画を世に広め、その保存の啓発が目的)】

○第二は、仏像は厳格なる法規ありて、画彫家の得手勝手に左右すべきものには無之(これなき)、世の所謂(いわゆる)大家なとど称せらるる現今の俗工は、世の目無きに乗し種々の不謹慎の像を作るは、宗教上の痛歎(つうたん)の至りに候(そうろう)、之(こ)れ一(ひとつ)は容易に其の法規を知るの機関なきの致す処と考へ、大正五年より十二ヶ年計画にて徐々撓(たわ)まず進行しつつ有之(これあり)

 【仏画のルールを世に広めるため名品を模写し、仏画の教科書を作ること(4千尊余り模写した『聖尊図像』を残す)

○第三は自身を代表する仏画一枚を謹画する事

 代表作となる仏画を描くこと(個人蔵「孔雀明王」とされる)

 

 
空如はこの三つの事業を成し遂げますが、生前その業績は広く世に知られ評価されることはありませんでした。しかし、その偉業は現代にも語り継がれ、後世においても色あせることはないでしょう。 

終焉とその後

空如は、昭和19年(1944)、東京への空襲が激しくなり茨城県石岡市に疎開します。昭和21年(1946)5月、体調を崩し姪が経営する箱根湯本 吉池旅館へ療養に向かいます。しかし、7月21日午後9時、ナヲ夫人や姪に見守られ73年の生涯を静かに終えます。
空如の没後20年を迎えた昭和41年(1966)、空如の顕彰碑が建立されます。この碑は、空如を慕う故郷太田村の有志240人の浄財で、長信田小学校校庭(太田城跡内)に建立したものです。
この顕彰碑建立の後、「空如画伯顕彰会」が立ち上げられ、昭和53年(1978)にナヲ夫人が90歳で逝去されるまで、毎年年忌法要と講演会を実施していました。
二十三回忌法要に際して、奈良環之助(※たまのすけ)

 

秋田県には近代において平福穂庵、平福百穂、寺崎広業らわが国において、第一級の画人がいるが、その人たちにその亡きあとも追慕する顕彰会の集いはない。(中略)その絵かきが人気のある時は賛仰(さんぎょう・ママ)する人が多いが、はやるとかはやらないことを別にして敬慕することは画人以前の人間の本質の問題である。そこに空如のえらさがある。亡きあともその絵かきを賛仰する顕彰会があるのは全国で鈴木空如のみであろう。今仏画を画技の一つの方法として書いている絵かきはいるが、信仰と美術を一体にした人は空如が最後の人であろう。

 

と空如の人間性を高く評価しています。
 模写は、原本のもつ芸術性を余すところなく忠実に写すだけでなく、原本のもつ人を感化させる魅力をも写し得るということとされます。空如にとって古仏画の模写は、千年百年前の優れた芸術家の精神世界を写し、自分の創作や人格形成の糧とすることだったのでしょう。

 

※奈良環之助…明治24年生~昭和45年没。秋田中中退後、早稲田中、旧東大農科実科卒。郵便局長、秋田市議、昭和33年秋田市美術館の初代館長、金足神瀬・追分各農協組合長、昭和30年から県文化財専門委員。昭和36年県文化功労章。(『秋田人名大辞典』秋田魁新聞社、2000年。) 

現代の研究者から見た空如の評価

 有賀祥隆氏(東京藝術大学客員教授、東北大学名誉教授) 

「鈴木空如の画業―法隆寺金堂壁画模写を中心に―」『鈴木空如資料調査研究事業1』より

・優れた古典の絵を模写することは創作でもあるのです。これまで模写をすることは、画家が絵を作り上げるという創作よりもある意味で低く評価されたのです。
・では誰もが、どんな画家でも原本があってそれを模写したらそれが模写絵になるかっていうとそうではなくて、やはり原本の持っている本当の絵の価値を写し伝える、というのは、それだけの技量がないとこの模写という仕事はできないのではないか。
・空如が模写したあるいは下書きを見てみると、ただ原本があってそれを写したという、ただそれだけのことではなくて、この空如の写した模写絵、そのものの中に我々が見出していくべきものがあり、感銘をうけるところが多々あるのです。

 

 泉 武夫氏(東北大学名誉教授) 「鈴木空如の古画研究と筆技」『鈴木空如資料調査研究事業2』より

・空如が日本絵画の古典的名作に限りない尊敬の念をいだいていたことは、私などもたいへん共感いたします。
・最近の狩野一信の再評価をみますと、ある意味ではようやく空如の目線に時代が追いついてきたともいえ、空如の先見の明を思い知らされるところです。

 

 関口正之氏(遠山記念館館長、國華社) 

「金剛薩埵(こんごうさった)菩薩図像(旧『金胎仏画帖』所収)」『國華』第1389号より

・空如は、原本の像容や筆勢にまで肉薄して模写の使命を完全に果たすばかりか、仏像の像身や蓮弁の輪郭の最も格調高い形態をも併せ表現しようと試みていることが感じられることは称賛に値する。

 

▲ 空如顕彰碑「法隆寺宝壁の真を伝えた 空如画聖の碑」(撰文は多田等観とされる) ▲

お問い合わせ

文化財保護課
電話:0187-63-8972
ファクシミリ:0187-63-8973

ソーシャルメディア

このエントリーをはてなブックマークに追加